青と白で水色

帰りにビデオ屋に寄ったら、邦画コーナーが、女優別に整理されていた。蒼井優のコーナーに、宮崎あおいと共演した「青と白で水色」が新作として出ていた。これは、ネット経由で見たことがあったので、あらためて借りる気はしなかった。それに蒼井優がいじめっ子役というのもちょっと気後れする。しかし、こう考えてみると、「花とアリス」以前の蒼井優は、気が強い役が多い気がする。今の可憐なイメージは、それ以降形成されていった気がする。うまい女優を、カメレオン女優といい、大竹しのぶとかもそういわれるが、やはり、その女優の核となる部分があると思う。そして、それは早期に観客側で形成され、それを崩すことは非常に困難。例えば、長谷川京子が薄幸の女性役でドラマに出ているが、メジャーになったのは、もっと派手目の役、特にCMで美脚をあらわにしているのが思い出され、それが強く印象に残っている。そうすると、地味な役をやっていても、それは、わざと地味に見えるような努力をしていると、観客には見える。どんなに上手な演技であったとしても、観客がその女優をいったんあるところに位置づけると、そこから離れ演技は、素直にそれを受入れるのは難しい。極端な例を出せば、ハンニバルの役をやった役者が、どんなにいい人の役を演じても、いつか裏の顔を出すんじゃないかという期待というか不安定感がつきまとう。といって、どの役とも違和感がないように、どのポジションにいるかがはっきりしないまま、女優として成功することはできない。他人を認めることは、何らかのラベル付けをすることだからだ。そのポジショニングをするのは、役ばかりではなく、私生活であるかもしれない。社会貢献を積極的にしているハリウッド女優にとって、それは莫大な収入の社会還元かもしれないが、そうすることで、たとえどんな悪役をやったとしても、観客は、本来彼女は立派な人間であり、それはすばらしい演技だと感じるだろう。
蒼井優は、その意味で、「花とアリス」以降の芸歴により、頭が良く、可憐でありながら、芯のある女性というイメージをかなり確立できた。それが本人がそうであるかは関係ない。もし、本人自信はそれと違っていたとしても、先のポジショニングが確立さえしていれば、観客の多くは、その私生活さえ、一つの役のように感じるだろう。蒼井優は、そのポジションから離れた役をするのに十分なほど、それを確立させたのだろうか。私は、まだだと思っている。映画女優といっても、現実的に、映画だけで女優業を成立させている人は見あたらない。逆に、映画がテレビ化しているのは最近の特徴である。となると答えはひとつ。テレビの連続ドラマで、今のイメージの路線での主演だろう。「はちみつとクローバ」のハグ役を、成海璃子がするということだが、映画のオリジナルキャストから離れて、自分だけもういちどドラマに参加するというのは無理であったか。しかし、2008年、蒼井優主演のドラマがヒットして、イメージを全国民に確立した後に、また、映画に戻ってくれると、私はうれしいんだけどな。
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